男はありのままの自分であってはならない(2022/02/16)

趣味があることはそんなに悪いことなんでしょうか

真面目ではないとか生産性を悪くするとか

日本では無趣味な方が好ましい傾向があるように思えてきます。

「釣りバカ日誌スペシャル」とか見ているとその感覚が見えてくる節があります。
主人公は目下釣りが趣味であり「趣味優先のライフスタイル」をとっている。
しかし営業職として成績が芳しいわけでもなく、遅刻など問題行動も多い。
こんな状態なので使用者側からすれば生産性の面で芳しい人材とは言えず、できればリストラしたい対象となるはず。

こういった影響もあって概して「趣味に没頭する人はまともに仕事ができない」というイメージが出来上がったように見えます。
それ以前に「脇目も振らず仕事に打ち込んでいく姿勢がある人」こそが仕事のできる人という、ストイックな姿勢があることが使用者サイドの「期待する人物像」に引っ張られている感もなきしも非ず。

この辺はマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の影響が大きいでしょう。
人々は信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献したと見ます。
それによって自分が社会に必要とされているという確信を持てるようになるという事になるのです。
しかし、それはつまり「やりがい搾取」ではなかろうか。

趣味にかまけることで競争力のある男に成長しないのが悪とか

「オタク」とは狭義には女性が気持ち悪いと感じるアニメやゲームなどの趣味の持ち主とされますが、広義には趣味のある人全般を指します。

なぜそのジャンルが嫌われるかは、一般的な親ならよく言うことなんですが、「アニメやゲームにかまけている暇があるならもっと勉強しろ」という話。
親としてその子の成績が「他人様と比べて恥ずかしい」という状況なら尚更でしょう。

オタクを嫌悪する女性の考え方は同じでそんな低俗なものに関わる暇があるなら女性に気に入られるために優秀な男に成長するための努力に専念しろと言いたいのでしょう。

そして広義には対象が趣味全般にまで拡張されていきますので、とにかく無趣味で「勝ち組」になるための成長に邁進することを求めます。
お眼鏡に適う成長のない者のくせに分不相応なコミュニケーションを取ろうとすること自体が女性差別と言われたりもしますので、いかに女性は男に一人前の大人としての条件に徹底したストイックさの伴う向上心を問うていると見受けられます。

しかしジェンダー問題の対応への要請から女性の自由と権利を最大限尊重し、男も女性の人権問題としてそれに配慮して真摯に応え、女性の望ましい人以外は寄りつかないようにしていかなければならないでしょう。
問題はそれ相応を努力をしても要望通りに行かなかったことを努力もせず甘えていたものとして自己責任論を振りかざして排除してしまうことでしょうか。
しかし今日の自己責任絶対の世論が強いと数の力で押し切られるので為す術はほぼないでしょう。

少々罪悪感は感じてますが

確かに趣味にかまけず仕事に集中していればミスもないはずですし、専念できる精神状態を整えられていない事を咎められても反論はできないでしょう。
ブログを書いている間も反省点を探すという意味では有用かもしれません。
しかし、反省点を探すために仕事の集中力が削がれるというのは本末転倒のようにも思われます。
直前のミスの原因を責めている間にその後の仕事でミスするとかいうドツボのハマり方もありましたし。

もちろん女性の理想通りの人にもなれていないので、業務連絡以外のコミュニケーションには「相手の方がメリットがないので関わりたくないのだから関わられては迷惑だ」と罪悪感を覚えます。
事務的な挨拶ですら、不快感を示されるのでその辺は伝わってきます。
(事務的な挨拶は業務の一部であるのでセクハラには当たらないことは会社側と確認しております。)

人との関わりにもニーズを考えないといけないご時世

自由であれば関わる人を選ぶ自由がある

自由であれば、当然に関わる人を選ぶ自由もある。
選ぶ自由があるのであれば、自分の利益や名声を得るために最適な人だけを選び抜くという行動に出るのはミクロの面では合理的な判断と言えます。

交友関係もしばしば「人脈(コネ)」というような扱いもあるため交友関係が少ない=人脈がない=人望や価値を持っていないと受け取られたりもします。

これを考えたら見劣りがあれば排除されても仕方がないかとも思えきます。

それに応えられない人が孤立なり差別することが正当化される

それに応えなければ淘汰されていくのはあたりまえ。
市場原理では市場のニーズのないものは淘汰されていくのは当然のこととされているからです。
そして人が孤立するのも差別されるのも、ニーズもなく必要とされるだけの価値がないからなのでそれは当然の結果としてしまいます。
そしてその価値がないのは努力してその価値を創造できなかった当人の努力不足なので自己責任だと言い切ってしまうのです。

ここまで他人から需要があるかで人の存在価値まで決めてしまうという流れは他ならぬ、市場原理を万能のものと過信しているからではないかと思うのですが、市場原理を万能とするのに疑問を持つことは合理主義に刃向かうものととして悪いことのように見られる感覚があるのです。
合理主義ではあれば適者生存のパラダイムに則る市場原理主義であるべきだとでもいうのでしょうか?

コメント

タイトルとURLをコピーしました